2011/06/28

今年の夏だけと考えてはならない


節電の夏。エコに夏を乗り切ろう。と一致団結している初夏の日本。デザイン界でもエコロジーに特化したグッドデザインも生まれて来ている。脱原発デモもあってか、もはや脱原発に反論する人もいない。エネルギー政策が不透明という懸念を含めてもなお、代替えなしの脱原発になんの異論もない。みんなが同じ方向をむいて精進していて、一部の「いやしかし、、」と議論を促すことを仕事としている方々も含めて、概ねよい流れだと思っているのは楽観的なぼくだけではないはず。


ただ、臨時的な義援から持続的な支援へとシフトしてきているこの時期に、デザイナーとして僕が考えることは、「日本人の新しい美意識」が芽生えようとしているのではないかということである。


日本特有の美意識の一つに「侘び・寂び」の概念があげられる。僕自身、留学時に「侘び・寂びとはどういったものか?」という問いを投げかけられた事があった。英語ではそれぞれ「侘び=imperfect」「寂び=patina」などと訳される。無骨で粗雑で不完全な状態や、時間経過で自然に劣化した状態を評価し、美しいと捉える概念がご存知、侘び寂びである。人間の歴史的価値を評価するアンティークとも違う日本特有のこの概念が生まれた経緯には、応仁の乱が一因となったと言われている。応仁の戦火で荒廃した町の人々が豪華なものよりも素朴だがそのなかに美しさを見出すことが出来たのは(禅宗や神道を信仰とする日本では)考えるに容易だろう。そして応仁に似たこの境遇のいま、侘び寂びの概念のような新概念が日本に生まれようとしているし、(希望的観測を込めて)生まれて欲しいと思っている。


先に秀逸なエコロジーデザインが生まれていると書いたが、秀逸なエコロジーについて考えなければならない。震災前のエコは、エコロジーとエコノミーの共存を1つの解として邁進してきた。この解は資本主義的で商業的な現在にすぐに浸透した。僕も素晴らしいことだなと賛同できた。でもよくよく考えてみると、優先順位がめちゃめちゃだということに気がつく。まず財布ありきで自然環境を利用するなんて目的と手法が間違っている。まず自然を敬い保全しようとしてはじめて副次的な経済欲に邁進するべきではないか。タイミング最悪の発言で誤報された石原都知事の「我欲」や、先日の村上春樹がバルセロナでのスピーチにある「効率(僕は合理主義と解釈した)」が人を惑わしてしまったのかもしれない。近代以降、ガラガラと音をたてて崩れてしまったのは神様や自然に対する敬意だったのかもしれない。


しかしこのめちゃめちゃな優先順位が正されるときがきている。エコロジーという概念は前提として不動の概念として扱われると思うし、そうならなくてはならない。その大前提があったうえで制作、製造してゆかれるべきだと思う。今年の夏だけと考えてはならない。もし原発エネルギーの代替えとなる案がないのであれば、それに見合う生活をしよう。エネルギーの消費ペースを少し落としても、僕たちは十分生活できるし生産できるのではないか。これは自粛しようということではなく、当然の事項であって、僕たちはそのなかでアクティブに生活するべきなのではないでしょうか。最期にもう一度、エコロジーはもはや大前提である。そのなかでより良いものづくりをしてゆこうという所存であります。